結婚翌朝から初代はおたすけに出掛け、新妻としゑ(後の二代会長)は縫い物で生計を支えるという、経済的にはどん底からの出発であり、言い知れぬ苦労も並々ではないはずだが(をや)の思し召しを布き広めるとの気概に満ちた毎日は、明るく喜びづくめであったにちがいない。二代会長の口から愚痴や不足、泣き言が出たことはないという。
苦労話の出ようはずはない。道一条を定めた日から、承知の上で踏み出した道であり、一人に語りかけ一人におさづけを取り次ぐ毎に喜びが弥増す。早朝から夜遅くまでおたすけ・においがけに大阪を巡った。「会長の履く下駄はいつもすり減って板のようになっていた」と赤松キヨ姉が述懐している。二代会長はその下駄の音をこころ良しと出迎えた。
奉告祭おかきさげ固い二人の喜びが大輪の花開き、大正十二年十二月二十一日、大阪市港区市場通り一丁目九番地において、飾大宣教所として実を結び名称の理をお許し頂く。翌十三年三月十一日付にて地方庁より許可。
二代会長竹川としゑは、明治三十年三月二十五日飾磨郡家島町宮に、大見豊松、きぬの次女として誕生した。尋常高等小学校を終え、十四歳の時大阪船場の旧家に行儀見習いとして奉公に出た。そのお宅の奥様が生花を活けておられる姿に魅せられ、やがては自分も、と夢を思い描いた。初代との結婚話が出た時は、華道、茶道に熱中しており「ついては結婚しても引き続いて稽古を続けたい」と両親に懇願したのもやぶさかではない。
「そちらへ参りましても、夜なべ終えて後は、念仏唱えることをお許し下さい」と、善兵衛様の結婚にあたって希望を添えられた教祖に思いが及ぶ。布教師の家内が茶道や華道とはと一蹴するところ、初代は「お道の将来には、きっとその素養が必要な時がくる」ととしゑの申し出を受け入れ、更には「大いにやればよい」と励ましている。
戦後後年、二代会長が十四歳にして思い描いた夢が教会本部、大教会、大阪教区において活き、大切なこととして重く用いられている。二代会長が花や茶に純粋な気持ちで注ぎ込んだ意志が尊く、親の道ととは茶の心に近づく道であろうし、天理の道は教祖のお心ににじり寄る道だからである。念願の宣教所設置が成り、初代夫妻とようぼく信者の喜びが如何ばかりかは大いに窺い知ることができる。そしてさあこれからや、との思いが弥益したであろう姿を思い描くことができる。確信した道を丹念に歩んだ夫妻の道すがらに表されているし、昭和十年頃の大祭には参拝者が神殿に溢れ、玄関の土間にカケ出しを造って膝詰め合わせて参拝をしたという状が明白にしている。
しかし、会計面ではなかなか苦しい状態であったと聞き伝えられている。時代は前後するが、二代会長は『みちのとも』に「ある時は、神様の日々の御供えのお米がなく、おさがりのお米を食べてしまうと翌日の御供えができないので、翌朝また洗いなおしてお供えさせて頂くという日が何日も続き、お米が黄色に変色してしまうこともありました」と述懐している。また「苦労を苦労と思わず、不自由を不自由とも思いませんから、苦労話というものはありません」と記している。これは決して“楽あれば苦あり、苦あれば楽あり”との世情諭しではなく、確と目標を見据えておれば、物が無い金が無いなどに一憂の必要はない、との初代会長、二代会長の生き様である。そしてその源は教祖のおひながたに示されている。